スピリチュアルペイン(1)

緩和ケア palliative care とは,がん医療における終末期医療にみられるようなケアである.緩和ケアは全人的ケア total care であり,たんに身体的苦痛 physical pain のみならず,精神的 mental,社会的 social,そして霊的苦痛 spiritual pain にたいするケアが必要となる.――そのように講義で教わり,また教科書的参考文献に記されている.
身体的苦痛とはフツーの「痛み」すなわち画鋲を足で踏んづけたときの痛みである.精神的苦痛とは病への不安や憂鬱といった「心苦しさ」に違いない. 社会的苦痛は例えば入院費の問題だとか家族関係だとかによる「苦痛」であるらしい.いずれもよくわかる話だ.しかし霊的苦痛 spiritual pain とはなんだろう.死んだら地獄に落ちるかもしれないといったシューキョー的な不安だろうか*1.あるいはどこかに魂 spirit とやらがあって,それが感じる痛みがスピリチュアルペインなのだろうか*2

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スピリチュアルペインとはなにか.教科書*3にも「霊的苦痛とは spiritual pain の日本語訳であるが,この言葉だけでは理解しにくい概念である」(p.6)とあった.
教科書によれば,スピリチュアルペインを含む全人的苦痛とは,ソンダース Saunders,C.が,がん患者とかかわった経験をもとに,患者が経験している苦痛をあらわすためにつくり上げた概念だという.ホスピス緩和医療のいわばルーツであり,ソンダースはホスピス運動の中心となったセント・クリストファーズ・ホスピタルの創始者である.ホスピスの思想・実践はキリスト教と非常に強いかかわりをもつ.ということはソンダースの提唱するスピリチュアルペインは西洋思想,とりわけキリスト教の思想と不可分に結びついたものではないだろうか.
実際,教科書によれば,ソンダースはスピリット spirit を「個人に生命を吹き込む,不可欠な根源」the animating or vital principle of an individual と述べている(p.227).この表現からはキリスト教におけるスピリトゥス Spiritus を連想する;「とくに新約聖書では,父なる神から吹発(spiratio)された第三の位格として,人を生かし,人の内に宿る聖霊 Spiritus Sanctus が啓示される」*4という*5

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霊的苦痛という概念は西洋思想とりわけキリスト教に由来するものであり,日本における臨床にはそぐわないものではないだろうか.

*1:しかし,それは精神的苦痛としての不安とどこが違うのだろう

*2:こころ mind さえありはしないとされるこの時代に,なんと非科学的な.そしてまた,精神 mind と魂 spirit とはどうちがうというのか

*3:恒藤暁『最新緩和医療学』最新医学社,1999

*4:岩波 哲学・思想事典,スピリトゥスの項

*5:原文には「吹き込む」というニュアンスはあらわれていないけれども