スピリチュアルペイン(2)

スピリチュアルペインは西洋とりわけキリスト教の思想にルーツをもつ概念であり,日本における臨床には不要な概念なのではないだろうか.また仮に,非キリスト教徒である日本人にも“スピリチュアル”なペインがあるとすれば,それはどのようなものだろうか.
このような問題意識のもと,スピリチュアルペインについて考える手がかりとして一つの症例を参照した.癌による疼痛にたいする緩和ケアを受けられた患者さんである.患者さんの訴える痛み(苦しみ)を,まずはフィジカル,メンタル,ソーシャルなそれに分類してみよう.そして,それでは割り切ることのできない苦痛――臨床的に対処しきれていない苦痛を“スピリチュアル”な苦痛とみなし,その性質をみてゆこう.そのように考えた.

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フィジカル,メンタル,ソーシャルな苦痛にはそれぞれ次のようなものがあてはまる.

身体的苦痛:痛みをはじめとした全身倦怠感,食欲不振,便秘,不眠,呼吸困難,悪心,嘔吐など.
精神的苦痛:不安,いらだち,孤独感,恐れ,うつ状態,怒りなど.さらに環境・地位・社会的役割・所有物・愛の対象・身体・自己といった対象を喪失してゆくことによる苦痛.
社会的苦痛:入院にともなう経済的な問題(医療費,入院費,生活費),家庭内や親族間の人間関係の問題,患者の過ごす場所や看病のこと,争議のことや遺産のことにかかわる問題とそれによる悩み,苦しみ.

患者さんにみられた苦痛をあてはめると,以下のようになる.

フィジカルな苦痛:腕の痛みやしびれ.さらに嗄声やめまいなど.患者さんの訴えの大部分をなしており,鎮痛薬や神経ブロックによる対処がなされていた.

メンタルな苦痛:不安やイライラ,抑うつ.たとえば,あらたな症状出現への不安など.また“家にかえると調子が悪くなる.積極性・活動性が低下して昼も夜も寝ている.このまま死ねないか,という気持ちになる”“家に帰ると不安になる”など,“家”に関連するかたちで不安や抑うつ的な気分が訴えられた.精神科受診,抗不安薬抗うつ薬パキシル)投与により対処された.

ソーシャルな苦痛:脳梗塞の夫の問題,遠隔地にすまう親族のうち誰のもとに身をよせるか調整がつかず転院先が決まらないという問題など.これは家族との面接による話し合いなどにより対処されていた.

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これらの枠組みでは割り切ることのできない苦痛としてみられたのが「罪悪感」である.
それは“寝ていると体が楽だけれども,じっとしていると罪悪感がある”などと訴えられた.

診療録をみるかぎり,罪悪感にたいしては精神科受診や抗うつ薬の投与もそれを和らげる効果をおよぼしていないようにおもわれた.メンタルな苦痛にたいしてなされた精神科的治療が有効ではなかったことから,逆に,この罪悪感は“メンタル”なものにとどまらない苦痛――ひいては“スピリチュアル”な苦痛といえるだろう.

また,教科書には霊的苦痛の解説に次のようにある(p.6).すなわち,罪悪感をスピリチュアルペインとみなすことには,教科書的には問題はなさそうである.

霊的苦痛とは spiritual pain の日本語訳であるが,この言葉だけでは理解しにくい概念である.実存的苦痛(existential pain)あるいは“自己存在への苦悩”と表現したほうが理解しやすいかもしれない.人間は死と直面するという体験のなかで,人間の心奥深いところにある究極的,根源的な叫びを意識的,無意識的にもつ.霊的苦痛と言われるこの叫びには(1)生きる意味への問い,(2)人生の苦難への問い,(3)罪責感,(4)死後の世界についての問い,(5)希望についての問い,(6)決して見捨てられない真の愛を求める叫びが挙げられる.

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では,この「罪悪感」の性質はどのようなものか;“じっとしていると罪悪感がある”のは「なぜ」か*1
考察および推測を記すと以下のようになる:
ある事柄にたいして罪悪感を感じるのは,それを「罪悪」とみなす価値観・判断基準をもっているからだろう.仮に罪悪感が“スピリチュアル”なものであれば,それを「罪悪」とするもの*2は“スピリット”といってもよいだろう:人は“スピリット”をもっている.それは価値観といってもよい.認識の枠組み,認識の原理といってもよい.それによって人は様々な事柄の価値づけ・意味づけをおこなって生きてきた.そしていま,己れの在り様が自らの“スピリット”にそぐわぬ状態になっている――自らの“スピリット”において己れの在り様が「罪悪」として感じられてしまう.それが「罪悪感」である.極論すれば,この患者さんにとって“じっとしている”己れのありさまは罪悪だったのだろう.

では“じっとしている”ことが罪悪なのはなぜか.おそらく,それは“家族の役にたたないから,家族に迷惑をかけるから”だろう.
ここでことさらに“家族に”とする根拠は精神的苦痛ならびに社会的な苦痛にある:“家”に関連するかたちで精神的な苦痛を感じ,また家族それぞれの意向に配慮し自らの転院先も決まらないという苦痛をうけることになったのは,それだけ家族のことに配慮しているから,家族こそが存在理由,家族あっての自分だったからだろう.

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*1:以下に記す考察は,ここで「なぜ」という問いをたてたことで誘導されたものであるようにもおもう

*2:判断の「主体」なのか,参照される「基準」なのか,渾然としているけれども