スピリチュアルペイン(3)

英語のスピリット spirit のもととなった言葉はラテン語のスピリトゥス spiritus であり,それはギリシア語のプネウマ pneuma にあたる.これらの語は〈風〉〈空気〉〈息〉などを意味する.
プネウマないしスピリトゥスはもとは呼吸,血等と同一視され,生命の原理と解されたという.たとえば古代ギリシア医学書に pneuma psychikon という表現がある.これは心もしくは頭から全身に浸透する,流動的で蒸気のような非物質的な要素を意味する.スピリトゥスないしそれに相当する語は,哲学においては「物質に依存せず,時間と空間に左右されず,合成されたものではない,真・善・美にかかわる行動原理」とされた.また聖書においては「風,息,人間の霊,神の霊といった表現がみられるが,いずれも,一つの存在の中にある本質的なもの,その存在を生かすもの,自ずと発散してくるものを意味する」という*1
スピリトゥス spiritus は「生命の原理」「行動原理」という意味合いをもつ.それゆえスピリット spirit を「生きるうえでの原理」だと考えよう.すると,スピリチュアル・ペインは生きるうえでの原理にかかわる痛みだと解釈できるだろう.

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一方,スピリトゥス spiritus は「存在の中にある本質的なもの,その存在を生かすもの」を意味するという.また霊的苦痛 spiritual pain は「実存的苦痛 existential pain」あるいは“自己存在への苦悩”と表現したほうが理解されやすいかもしれない*2,という.そこで,本質 essence ならびに実存 existence の意味をとりあげよう*3

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本質 essence ならびに実存 existence は,哲学の文脈ではキリスト教神学(とくにスコラ哲学)において用いられたラテン語 essentia ならびに existentia に由来する.キケローの造語とされる essentia は〈在ること〉を意味するギリシア語エイナイ einai ないしラテン語エッセ esse から派生した語である.また existentia は「立ち現れる」「出で立つ」を意味する動詞の existere から作られた名詞である.これらの語はいずれも〈ある〉こと,存在 esse, being にかんして用いられてきた.
たとえばここに自動車が〈ある〉とする.そのためには自動車の材料となった鉄やガラスやゴムが必要である.それらの素材があってこそ現に事実として自動車〈がある〉ことが成立する.しかし,それらの素材は取り替え可能なものである(ガラスはべつに「この」ガラスでなくてもよい.鉄の代わりにアルミやチタンを用いてもよい),また素材をたんに寄せ集めただけでは自動車にはならない.それらは何らかの設計デザインに従って組み立てられて,はじめて自動車となる.自動車を自動車たらしめる原理ないし「本質」によってこそ,あるものが自動車〈である〉ことが成立する.
このように,何ものかが〈ある〉ということには,それが〈何であるか〉という意味での〈である〉と,それが〈現実にあるかどうか〉という意味での〈がある〉が区分されうる.〈ある〉すなわち存在にかかわるこの2つの側面を,アリストテレスは「それが何であるかという存在 ト・ティ・エスティン to ti estin」と「それがある(かないか)という存在 ト・ホティ・エスティン to hoti estin」という言葉で概念化した.この2つの存在概念が,のちに中世のスコラ哲学者によりエッセンティア essentia (本質存在,……である),エクシステンティア existentia (事実存在,……がある)と訳され定着した.

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本質 essence ならびに実存 existence は,いずれも存在(アル)にかかわる語であり,実存は「ガアル」,本質は「デアル」に相当する.
そこで「実存的苦痛 existential pain」とは,何ものか「ガアル」ことにかかわる痛みだと解釈できるだろう.またスピリトゥス spiritus を「存在の中にある本質的なもの」ひいてはある存在の本質 essence のことだとすれば,スピリチュアルペインは何ものか「デアル」ことにかかわる痛みだと解釈できるだろう.

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さらに,実存的 existential という形容詞は実存主義 existantialism という思想的立場に由来するものとおもわれる.自ら実存主義という思想的立場を標榜した哲学者サルトルは「実存は本質に先立つ」*4とのべている.

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〈在ること〉ないし存在 esse ならびにエッセンティア essentia,エクシステンティア existentia という概念に明確な区別を導入したのはスコラ哲学者のトマス・アクィナスである.トマスによれば,あるものの本質 essentia は何らかの原因(ひいては神)によって存在 esse してこそ,はじめて現実に立ち現れた存在 esse existentiae となる.本質 essentia は神から存在 esse を与えられて事実存在 existentia となる.すなわち essentia は extentia に先立つ.この図式はカントにいたる近代哲学に受けつがれた.本質は存在するモノゴトの根拠・原理であり,本質があってこそある物はまさしくその物となる;すなわち本質は存在(実存)に先立つ.
それにたいしサルトルは次のように論じる:たとえば自動車のような制作物であれば,事実存在する個々の自動車の実存より先に,その設計者の設計デザインひいては本質が先立つだろう.人間もまた,神によって創造されたのであれば神の思いえがいた本質のほうが,個々の人間の実存に先立つこととなるだろう.しかし神がいないのであれば,実存に先立つ本質はない.各人は,まず自らがあるという実存をもとに,自らが何ものかであるということを,自らの本質を選びとることになる.

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すなわち,人間にあっては自らが何者デアルかという本質よりも,まず自らガアルという事態が先立つ.このことが「実存的苦痛」という表現のもととなっているのであれば,それは「デアル」に先立つ「ガアル」にかかわる痛み――身体能力や社会的立場など何ものかである私を形づくってきたものごと,さらには自意識や命さえもが病苦により喪なわれてゆくなかで,それでもなお,現に私というものがあることにかかわる痛みだと解釈できるだろう.

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先に症例を参考として,“スピリット”を人の価値観ないし認識の枠組み,認識の原理とした.そして己れの在り様が自らの“スピリット”にそぐわぬ状態になっていることが罪悪感,ひいてはスピリチュアルペインをもたらすと述べた.
これをスピリットや実存などの意味に照らし合わせれば,以下のように言えるだろう:スピリチュアルペインとは実存(現にある私,私があること)が本質(私が何ものかであること,自らの位置づけ)とそぐわぬ状態になることによる苦痛である.

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*1:岩波 哲学・思想事典「スピリトゥス」の項

*2:最新緩和医療学 p.6

*3:以下,岩波 哲学・思想事典「実存」「実存主義」「存在」「本質」の項,木田元『反哲学史』,アリストテレス形而上学岩波文庫版など

*4:実存主義とは何か』