聖書の真理は,ここ千九百年間西欧の世界を主な舞台として発揮された.…….しかし西欧文化が,聖書の真理を全体として正しく吸収し理解し生かしえたと断定することは,できない.なぜか.まず第一に,聖書はあきらかに東洋において成立した.今日なお紛争のたえまのないパレスティナ地方に,セム民族の一分派が長く定住し,そこに,古代東方一般に共通な生きかたと考えかたとが純化されて,ヘブル的と特色づけられたものをうんだ.したがって,これらは,ほんらい西欧にたいしては異質的である,東洋的生きかたに属する.聖書は,旧約聖書はいうまでもなく新約聖書さえも,このヘブル的生活と思考とがもとになって出来た文書である.
(聖書入門,小塩力,岩波新書,1955)

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これまでは漠然と“西洋思想,とりわけキリスト教の思想”などと一括していたけれども,少々考えなおしたほうがよいかもしれない.

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もちろん,東洋という領域の規定が困難である…….ただ,インドのような鮮明さ,日本のようなおぼろさの区別はあっても,最後の本質を「原理的」なものにみようとし,したがって「悟り」が第一義となるものと,「人格的」なものを主とし,したがって「信仰」が問題となるところとの相違は,十分取りあげられねばならない.
(前掲書)

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